伊賀無足人と忍者

誤った忍者像

前に伊賀の無足人のことを書いたが、あえて「忍者」という言葉は使わなかった。これは、忍者があまりにも魅力的な存在であるが故に、伊賀の国人のあり方を見誤らせることを憂慮したからである。

以前の Wikipedia には「伊賀の無足人=忍者」という記述があったが、これなどは何でもかんでも忍者にしてしまう実例である。これとは逆に、現在の Wikipedia の「忍者」の項に「お庭番は忍者ではない」と断定している部分があるが、このような狭義の解釈もおかしい(お庭番は伊賀衆でも甲賀衆でもないというなら正しいが)。

200人対4万人

天正伊賀の乱の際、主として戦った伊賀衆は200人だった。信長の味方についた柘植衆を除くと、これが伊賀国人の最大数と見てよい。ただし、この人数は家の数と見るべきで、それぞれの国人が郎党を持っているから実際の軍勢は千人に近かったかも知れない。それでもその数で数万の織田軍と戦って一度は勝利したのだから、大したものである。だが、16世紀の伊賀国人を忍者と呼ぶのは適当ではない。彼らの戦法(忍術)はあくまでも国を護る手段であり、目的ではない。

藤堂家の支配になり、懐柔策として、保田元則を筆頭とした国人の中でも名門とされた家は藩士に取り立てられた。彼らは勤番侍であり、忍者ではない。次に続く家(あるいは高い能力をもつ者)は、「忍びの者」として採用された。ただし当時は「忍び」という言葉は「盗人」をも意味したため、これを避けて「伊賀者」と呼ばれた。伊賀の人間に伊賀者も無いものだと思うが、これは公室年譜略に記載されている正式な職名である。彼らは明らかに、我々のイメージする忍者である。彼らが士分であるのか徒士身分であるのかは不明である(私が調べられていない)が、少なくとも無足人より上の身分である。石高の多いものでは40石5人扶持などというものがあり、江戸や大坂の町奉行所同心などよりも豊かである。

残りの伊賀在住国人のほとんどが当初、無足人になったと考えてよい。その数は天正伊賀の乱後に他国へ出たものを考えると、柘植衆を含めても200人程度であろう。彼らについても、少なくとも一部は忍者と呼んでも良いだろう。ただし、Wikipediaは伊賀の無足人=忍者としているが、これは明らかにおかしい。少なくとも「伊賀者」は無足人ではないし、上述のように後期の無足人には、ただの富農である者もいる。また、伊賀国人のすべてが忍びの術を心得ていたかについても疑問がある。

この項書きかけ。