無足人の成立
豊臣家の滅亡後、徳川秀忠の治世、越前国北庄六十七万石城主松平忠直による「越前戒厳」の際、農民出身の兵を募り彼らに無足人という名字帯刀を保証された身分を与えたのが、無足人制度の始まりとされる。そのため、無足人は伊賀だけでなく、伊勢や山城、大和(津藩は大和国110村、山城国相楽郡16村も領有する)にも存在する。
しかし、伊賀の無足人だけは他と違い、兵力として組織化されている。彼らは主に鉄砲隊に所属させられた。そして、その中でも地域で有力な者を御目見無足人として、一段高い身分とした。地域で有力な者とは、天正伊賀の乱以降も伊賀に残った国人(郷士)と重なるのは明らかである。即ち津藩は無足人制度を利用して、伊賀国人の不満に対するガス抜きをしたのである。
無足人の制度は、どうもあまりにもうまく行き過ぎたようである。津藩にとっては低コストで兵力を整え、伊賀国人にとっては最低限の名誉を保つことが出来る。それに味をしめたのか、後に津藩は無足人を乱発し、豊かな百姓で軍資金の調達などに貢献したものを取り立てることになり、最盛期には1200人を越える無足人が居た。